自由ヶ丘について

「自由ヶ丘」の歴史

History

「民宿 自由ヶ丘」を語る上で、欠かせないのが「牛相撲」と「おじゃれ寿司」という2つのキーワードです。

牛相撲とは、昭和35年頃に、自由ヶ丘創業以前に始まった当民宿敷地内における、観光客の方々に向けたショーでした。
当時の八丈島では、各家庭に牛が飼われており、島民は祭り事などで牛に角突きをさせ遊んでおりました。
それを多くの方に見て頂けるように会場を作り、ショーを行ったのが「牛相撲」です。

当民宿の創業者である、菊池正が行司となり行われたこのショーは、観光ブーム真っ只中であった八丈島において話題を呼び、観光バスも立ち寄る八丈島の名物となっておりました。
そして、その傍らで始めたのが「おじゃれ寿司」という寿司屋でした。「おじゃれ」とは八丈の方言で「いらっしゃい」を意味する言葉です。

牛相撲を観覧し、その後会場横の寿司屋で酒を飲むというサービスもおかげさまで好評を得たのですが、なぜか寿司屋であるにもかかわらず、そのまま酔いつぶれて寝泊まりしてしまうお客様が非常に多くいたため、その寝泊まりする方が増えることから始まったのが当民宿の始まりです。
わずか3部屋でのスタートでした。

考え方によっては、おじゃれ寿司で酔いつぶれて寝泊まりして頂いたお客様のおかげで当民宿が存在すると言っても良いのかもしれません。

そして、現在の民宿上部に「自由ヶ丘遊園」という名で正式に民宿が始まりました。
現在では外観だけのみ御覧頂けますが、その自由ヶ丘遊園は、民宿としてはとても大きく、30部屋、最大120名は泊まれたマンモス民宿でありました。
八丈島では珍しい赤い瓦でできた正面玄関は、当時の漁師が使用していたガラス玉の浮きを鉄製のリングに幾つも飾り装飾され、地下には八丈島の形をした池がありました。そしてそれを取り囲むように、30もの部屋が並ぶ3階建ての建物でした。

この自由ヶ丘遊園は、名編集者都築響一氏による奇書「RODESIDE JAPAN珍日本紀行」(筑摩書房、第23回肝ら伊丘衛賞受賞)に八丈島の竜宮城として登場しており、裏表紙も飾っております。

その後観光ブームの縮小などがあり、牛相撲は平成になるころ終了致しました。
また、民宿自体の老朽化や台風などでの被害もあったことから、
現在は同敷地内に移り、名前も「民宿 自由ヶ丘」と改め、現在まで営業させて頂いております。